ポール・ラッシュ博士 キープ協会の創設者
■理念
清泉寮を運営するキープ協会の創設者であるポール・ラッシュ博士は、「己のように隣人を愛しなさい」という聖書の言葉に従い、非凡な行動力で、戦後日本の民主的復興に多大な貢献を果たし、身近な理想家として多くの人々の胸に刻み込まれております。
■生涯
博士はケンタッキー州出身で、関東大震災で崩壊した東京と横浜のYMCAを再建するため1925(大正14)年に米国の国際YMCAから派遣され、初来日しました。その後、キリスト教日本聖公会の主教の依頼により、ミッションスクールであった立教大学で、日米開戦で強制送還されるまで教鞭を取っていました。
この間、東京の聖路加国際病院建設の募金活動、日本聖徒アンデレ同胞会(BSA)の設立など多くの社会事業に尽力し、その青少年訓練清泉寮キャンプ場として1938(昭和13)年、山梨県八ヶ岳山麓の清里に清泉寮を建設しました。
また日本のアメリカンフットボールは、1934(昭和9)年ポール・ラッシュ博士により組織化され、後に、日本アメリカンフットボール協会は「日本アメフトの父」の称号を捧げ、現在も日本一決定戦ライスボウルにおいてMVPにポール・ラッシュ杯を授与して、博士の栄誉をたたえています。
日米開戦により強制送還された博士は、ただちに米国陸軍日本語学校に志願し日系2世兵の指導に当たるとともに、米国各地の教会で、戦争後の日本救済への支援協力を訴えて、講演活動を行いました。そして終戦と同時に、GHQ将校として東京に戻り、マッカーサー元帥の理解を得ながら、戦禍で疲弊した日本社会の再建活動に取り組んだのです。
博士の日本復興支援は清里にとどまらず、戦時中軍部に弾圧された立教大学や日本聖公会、アメリカンフットボールの復興、聖路加国際病院の再生などにも多大な尽力をしました。
また、神奈川県大磯で混血孤児の親代わりとなって養育した澤田美喜さんの「エリザベスサンダースホーム」の創立・運営を支援し、孤児たちのゴッドファーザー(洗礼親)を引き受けました。
亡くなる直前、英国からカンタベリー大主教が、清里で病床にあったラッシュ博士をお見舞いされ、人類への奉仕と神の栄光を地上に顕したことに感謝の言葉を伝えたのです。彼の最後のそして最大の栄誉となりました。1979(昭和54)年、聖路加国際病院で82年の生涯を閉じました。
キープ協会の働きを通じて、日米の民間交流の手本を示し、亡くなるまで日本を愛し続けたポール・ラッシュ博士。その最期に身の回りの財産は、聖書と万年筆、何着かのスーツ、そしてパジャマと歯ブラシだけ。家庭も貯蓄も持たず、一生を日本への無償の愛のために捧げたのでした。 博士の遺骨は清里聖アンデレ教会納骨堂に安置されております。
■博士の哲学
“Do your best and it must be first class” - 最善を尽くせ、そして一流であれ -
ポール・ラッシュ博士は、28歳で来日してから、82歳で亡くなるまで、生涯をかけて日本の社会事業に身を捧げました。”Do your best and it must be first class”は、博士が無償の奉仕で社会事業に取り組んだ際の心構えであり、また日本の若者に残した教えの言葉として有名です。
もともとこの言葉は、博士が戦前、東京築地・聖路加国際病院建設のために全米で募金活動に従事していたときに、同病院院長のルドルフ・B・トイスラー博士から伝授されました。「ラッシュ君、もし君が主イエスの名において事業に取り組むのであれば、君は最善を尽くさなければならない。しかも、それは人々が目標とし、まねができるよう、本物の、一流の仕事でなければならない。」
この言葉は「人が一生において取り組むべき事業は、金や栄誉のためだけではさもしいものになってしまう。正義のために、そして他の人々の向上のためになるよう、最善をつくしなさい」という意味で、トイスラー博士は若きポールへの励ましとして授けられました。以来、博士は、この言葉を胸に刻み、最善を尽くして日本の高冷地開拓に取り組み、人々に希望を与え、日米の友好に尽くしたのです。そして、晩年には次代を担う若者へのメッセージとして伝えました。
博士は、1946(昭和21)年には全国中等学校野球大会(現在の甲子園選抜高校野球大会)を阪急西宮球場で復活させたとき、出場チームに「オメデトウ、ドウユアベスト」のメッセージとともに平和の象徴として白球をプレゼントしたエピソードがあります。