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ポール・ラッシュ記念館 日本アメリカンフットボールの殿堂

日本アメリカンフットボールの殿堂

■日本アメリカンフットボールの殿堂

アメリカンフットボールの父、ポール・ラッシュ博士ゆかりの地フットボールの普及に特に貢献された48名を顕彰
1996年3月に日本列島のほぼ中心に位置する「アメリカンフットボールの父、ポール・ラッシュ博士」ゆかりの地である山梨県・清里に日本アメリカンフットボールの殿堂が造られました。館内には、殿堂入り顕彰者の顕彰額をはじめ、日本に競技を紹介したポール・ラッシュ博士を中心とした日本のアメリカンフットボール創世期の出来事から、発達史、現在の振興の様子、各種大会のプログラムやポスター関連書籍など貴重な資料を展示しております。また、殿堂の建設募金に協力した全国の学生、社会人チーム、選手、役員、またアメリカンフットボール関係者約2万人の名を記した名板もございます。
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毎年1月に行われるのが、日本のアメリカンフットボールの頂点を決定する「ライスボウル」。 その戦いの中で最も輝いたプレイヤーに与えられる最高の栄誉が、「ポール・ラッシュ杯」です。日本にフットボールが誕生して50年目の1984年、ライスボウルは東西大学選抜対抗戦から日本選手権へと移行し、それを機に試合で最も活躍したプレイヤーに対して「日本アメリカンフットボールの父、ポール・ラッシュ」の名を冠した最優秀選手賞(MVP賞)を贈り、その健闘を讃えることになりました。館内にはこの「ポール・ラッシュ杯」も展示されております。
日本アメリカンフットボールの殿堂が、少しでも多くの方々に、アメリカンフットボールというスポーツを知り、また親しんでいただくきっかけになれば幸いです。
公益財団法人キープ協会は、社団法人日本アメリカンフットボール協会より施設の運営管理を委託されております。

■第5回殿堂顕彰者プレート掲額式

今回、新たに12名の顕彰者が、アメリカンフットボール殿堂入りされました

2020年1月3日ライスボウルにて殿堂顕彰者が表彰され、10月17日に山梨県清里の清泉寮にありますポールラッシュ記念館内の日本アメリカンフットボールの殿堂で顕彰者のプレート掲額式が開催され、当日は顕彰者並びに顕彰者のご遺族、ご関係者に協会関係者も含め、約35名が集まり開催されました。

新たに12名の顕彰者が、アメリカンフットボール殿堂入り

■アメリカンフットボールの殿堂顕彰者

ポール・ラッシュ以外の殿堂顕彰者47名(第一次~第五次)
◆第一次顕彰者(2004年7月4日)
松本 瀧蔵 氏
(まつもと たきぞう)
(1901~1958)
1930年ハーバード大学留学、その後帰国し明治大学教授。1934年東京学生アメリカンフットボール連盟結成にあたり、理事長のポール・ラッシュ氏を助け書記長に就任。審判としても活躍し、日本で最初の試合に先立つ10月25日、明治大-在日ハワイ二世軍の主審を務める。1942年、帰国したポール・ラッシュ氏の後を継ぎ、第2代の関東學生連盟の理事長に就任。1946年衆議院議員になり、国民協同党政調会長、片山内閣の外務政務次官、鳩山内閣の内閣官房副長官、岸内閣の外務政務次官を歴任。
小川 徳治 氏
(おがわ とくじ)
(1905~2001)
1934年、立教大学教授として立教大学アメリカンフットボール部部長に就任。同時にポール・ラッシュ氏とともに明治大学のアメリカンフットボール部の創部の支援。同年の東京学生アメリカンフットボール連盟結成時に理事に就任。連盟創設期の防具の国産化を推進するとともに連盟の総務担当として競技場の交渉と手配、連盟の経理を担当し、実務的な連盟活動の推進者として貢献。同時に立教大学アメリカンフットボール部を育成。戦後、1963年から2年間、1969年から2年間の2回の日本協会理事長。
服部 慎吾 氏
(はっとり しんご)
(1913~1995)
立教大学予科よりフットボールを始め、センターとして活躍。1939年立教大学卒業後、1940年応召、札幌の歩兵部隊に従軍。終戦後、関東地区のフットボールの復興に戦前の仲間とともに貢献。チームの再興、グラウンドの手配、防具の準備など、戦後再来日したポール・ラッシュ氏とともに運営の中心となる。1948年、日本フットボール協会の再建に努力し、戦後初代の理事長に就任。以降、理事長として5年間、フットボールの復興に貢献。戦前、戦後の日本のアメリカンフットボールの記録を整理。
安藤 信和 氏
(あんどう のぶかず)
(1920~2014)
1937年、立教大学予科入学後直ちにアメリカンフットボール部に入部。ラインとして活躍し1942年卒業。太平洋戦争に従軍し戦後シベリアで4年の抑留生活。1952年関東大学連盟理事を経て1954年から審判活動に従事。1960年に関東地区審判組織の部長となり、1964年審判協会設立とともに初代の理事長。この間、ボウルゲームの主審を数多く務めるとともに、審判組織の充実と公式規則の制定に貢献。1979年から12年間、日本協会理事長に就任。日本協会顧問。
羽間 平安 氏
(はざま へいあん)
(1927~2022)
関西大学アメリカンフットボール部のQBとして1948年1月の第2回甲子園ボウルで大学日本一となる。1949年1月の甲子園ボウルでも活躍。卒業後、関西地区で審判として活動を開始するとともに連盟組織の確立と審判の実務を定めたメカニックの確立に貢献。リーグ戦の審判をはじめ通算32回の甲子園ボウルの審判を担当。うち1955年から1983年まで29回の主審を務める。この間、ルールの解釈、審判の指導、競技の普及に貢献する。1998年より関西協会会長。日本協会顧問。
米田 満  氏
(よねだ みつる)
(1928~2020)
関西学院大学で1949年から2年間、QBとして甲子園ボウルに出場し、2年連続大学日本一となる。卒業後、関西学院大学のコーチとして4回、監督として11回、総監督として10回の合計25回の甲子園ボウル出場を果たすとともに、中学、高校、大学の10年一貫教育のシステムを確立。大学のリーグ33連覇、高校の214連勝、中学の52回連続甲子園ボウル出場等の業績を挙げた。また、東京大学アメリカンフットボール部の創部を支援するなど、他のチームの指導にも貢献。
古川 明  氏
(ふるかわ あきら)
(1931~2023)
池田中学時代にフットボールを始める。関西学院大学で1949年から4年間、ガードとして甲子園ボウルに出場。第4回、第5回甲子園ボウルで2年連続、大学日本一となる。卒業後、米デンバー大学に留学し本場の知識を吸収。帰国後、1956年から関西連盟の活動に携わる。同時にNCAAとの窓口として技術交流と公式規則の適用を推進。1970年より2000年まで現学生連盟専務理事として関西地区のフットボールの普及に貢献。1994年より4年間、日本協会理事長。1995年関西協会理事長。日本協会顧問。
篠竹 幹夫 氏
(しのたけ みきお)
(1932~2006)
高校時代ラグビー選手として活躍後、日本大学アメリカンフットボール部に入部。在学中に負傷し闘病生活を続けながら1955年日本大学初優勝の原動力となる。卒業後、コーチに就任。日本大学助手補佐を皮切りに1977年教授に就任し、46年間教育者として貢献。1959年日本大学アメリカンフットボール部監督に就任し、2003年3月までの44年間の監督在任期間中、290勝39敗4分け。関東大学リーグ優勝25回、甲子園ボウル優勝20回、日本選手権4回の優勝を果たす。
◆第二次顕彰者(2010年1月3日)
松葉 徳三郎 氏
(まつば とくさぶろう)
(1903~1981)
大阪YMCA体育主事として1932年ロサンジェルス五輪視察時に現地の南カリフォルニア大学とスタンフォード大学の体育施設を見学、フットボール競技に接する。帰国後、1934年夏に母校関西大学でチーム組織化の活動を開始、1935年に関西初の部として創部、1937年日本米式蹴球協会関西支部長、1941年関西鎧球連盟理事長に就任。戦後、関西地区のフットボールの復興に中心メンバーとして参画。1946年関西大学米式蹴球連盟を再建、理事長に就任し、戦後の関西地区のフットボールの活動再開に貢献。
保科 進 氏
(ほしな すすむ)
(1906~2000)
1935年ハワイより来日、法政大学創部に貢献し初代監督兼プレーヤーとして活躍。1938年関東學生米式蹴球連盟理事に就任、連盟活動、審判活動に貢献。法政大学監督を計20年、成城大学コーチを2年、明治学院大学監督31年・総監督4年の計57年間、各大学で技術指導。この間、米国の理論をいち早く取り入れると共に1964年度ライスボウル東軍監督をはじめ多くの選抜チームの監督、コーチを務める。1955年から法政大学体育講師として一般学生にフットボール実技で競技の普及に努める。91歳までグラウンドで指揮を執る。
井上 素行 氏
(いのうえ もとゆき)
(1915頃 - 1987)
ハワイ出身。早稲田大学米式蹴球部の設立に寄与し、1934年東京學生米式蹴球連盟設立に学生委員として参加。1934年日本初のフットボール公式試合(学生選抜-横浜YACA)に出場。その後もオールスターのプレーヤーとして活躍し1936年初の米国遠征の全日本選抜チームの選手として渡米。卒業後、審判員として貢献。戦後、フットボールの復興に中核メンバーとして参画、1946年関東フットボール・リーグ理事長に就任。1952年日本フットボール協会競技制定委員として公式フットボール競技規則書の発行に加わる。
吉川 太逸 氏
(よしかわ たいつ)
(1920~2011)
1940年滋賀県師範学校卒業後、40年間、小、中、高の教師として教育一筋に貢献。青少年の体力向上、選手の育成、地域における各競技の普及、振興、後進の育成に努める。戦後、タッチフットボール、ハンドボール等のチームの組織化と県、市における協会、連盟を設立。1948年滋賀県タッチフットボール連盟を設立し1951年甲子園ボウルでタッチフットボール競技の実施に貢献、同年長浜ボウルを創設。1975年、社会人チーム湖北ファイニーズの会長として育成に寄与。アメリカンフットボールのユース、ジュニアの育成の先覚者として貢献。
金澤 好夫 氏
(かなざわ よしお)
(1935~現在)
明治大学在学中、第11回ライスボウルに出場。卒業後、専修大学コーチ、拓殖大学初代監督に就任。この間、関東大学連盟、日本アメリカンフットボール協会の理事を務めると共に、社会人団体の基盤づくりに貢献。1980年東日本社会人協会を設立し理事長に就任、社会人王座決定戦を創設。1985年日本社会人アメリカンフットボール協会初代理事長に就任後、1996年Xリーグを設立。第1回、第2回のワールドカップで日本チームを優勝に導く。2003年 - 2005年日本アメリカンフットボール協会理事長。2003年国際アメリカンフットボール連盟上席副会長に就任。
◆第三次顕彰者(2016年1月3日)
加納 克亮 氏
(かのう かつすけ)
(1903~1971)
朝日新聞運動部記者/東京学生連盟理事/関東協会理事長 立教大学在学中はラグビー部の主将。朝日新聞入社後、運動部記者としてアメリカン フットボール担当。東京学生米式蹴球連盟設立に理事として参加。記者として紙面を 通じ競技の紹介を幅広く実施、アメリカンフットボールがスポーツ界で一定の地位を 占めることに貢献。朝日新聞社の 1935年の全米選抜チーム招請と翌年の全日本選抜 チームの米国遠征を推進。1946年、リーグ復興のための関東連盟創立委員会委員長に 就任。以降 3年間、関東連盟理事長。没後の 1972年、永年の功績により、ライスボ ウル東西学生選抜戦に加納杯が制定される。
花岡 惇 氏
(はなおか じゅん)
(1912~1994)
明治大学監督/東京学生連盟役員。ハワイ生まれ日系 2 世。明治大学入学後、部創設の中心的役割。1934年、我国最初の 公式試合に出場し、その後もオールスター級の活躍。卒業後、連盟役員、監督として 継続的に活動。1940年代、同志社、関西大学を指導。1947年から 1962年まで 16年 間、監督として明治大学を率いる。同時に 1949年よりライスボウル東西学生選抜戦 の監督として 10 数年活動する。米国からの最新情報と戦術を我国に広く紹介すると ともに、ライスボウルで交流した各大学コーチに伝え、フットボールの本質を広める ことに貢献する。
三隅 珠一 氏
(みすみ しゅいち)
(1924~1975)
日本タッチフットボール連盟/日本協会。1945年、旧制大阪府立池田中学校に体育教官として着任。タッチフットボール部顧問 として、チーム育成に尽力。同年、日本最初の公式タッチフットボール試合を開催。 甲子園ボウルで、東西タッチフットボール王座決定戦を実施。1954年、全国高校タッ チフットボール大会開始、1970年、全国高校アメリカンフットボール大会開始と高校 フットボールの組織づくり、公式規則書の制定、翻訳等の作業実施に尽力され、日本 の高校フットボールの普及・発展に貢献。永年の功績により、クリスマスボウル全国 高校選手権の最優秀バックスに三隅杯が制定される。
樋口 廣太郎 氏
(ひぐち ひろたろう)
(1926~2012)
アサヒビール株式会社名誉顧問/日本協会初代コミッショナー
1986年、アサヒビール株式会社代表取締役社長に就任。1988年以降、社会人クラ ブチーム「シルバースター」を後援し、多年に亘りチームをスポンサード。財界人 として、日本フットボール界に様々な支援や普及貢献活動を行い、アメリカンフッ トボールの文化を、広く一般社会に発信してその価値を広報した。その後、日本ア メリカンフットボール協会の初代コミッショナーに就任。協会活性化に取り組み、 アメリカンフットボールの普及振興に大いなる支えとなり、貢献した。2012年、 旭日大綬賞受章。
※日本アメリカンフットボール協会の公益社団法人化に伴い、現在コミッショナー 制は廃止
藤村 重美 氏
(ふじむら しげみ)
(1931~2007)
市立西宮高等学校監督/兵庫県高等学校体育連盟初代理事長/京都大学 監督 京都大学在学中は選手として活躍。卒業後、市立西宮高等学校の教壇に立ち、タッ チフットボール部を創部指導。創部 5年目の 1962年、関西学院高等部の連勝記録(204 連勝)を阻み、その後、2年連続全国制覇を果たす。その傍ら、1958年、兵 庫県高等学校体育連盟にアメリカンフットボール競技が加盟するとともに同連盟 の初代委員長として組織の礎を築く。高校フットボールがタッチフットボールから アメリカンフットボールへと移行する過程で、日本の高校フットボールの牽引者と して普及に貢献。また、1965年京都大学監督に就任、京大フットボールのバックボーンを築いた。
武田 建 氏
(たけだ けん)
(1932~現在)
関西学院大学監督/関西学院高等部監督 関西学院高等部よりフットボールを始め、1950年より 4年間 QB として甲子園ボウ ルに出場、優勝 2 回。卒業後、北米留学で得た最新戦術を日本に紹介し、日本フッ トボールの近代化及び発展に貢献。1966年から関西学院大学のヘッドコーチ・監 督として 11年間指導し、その間に 7 回の甲子園ボウル優勝、5 連覇に導く。1980年からは高等部監督として、6 回全国制覇を果たした。1970年代より本場フットボ ールの TV 解説や入門書刊行により、一般への普及、競技者・ファンの拡大に繋げ た。心理学者としてもチーム運営・指導方針を理論的に解き明かし、多数の書籍を 出版、日本スポーツ界の健全な発展に寄与した。
笹田 英次 氏
(ささだ えいじ)
(1934~現在)
国際アメリカンフットボール連盟初代会長/日本フラッグフットボール 連盟理事長。都立西高等学校でタッチフットボールを始め、日本大学で活躍。1956年、日本ア メリカンフットボール審判協会関東審判部に加入、1960年から運営を担当し、競 技規則の制定、審判員の技術力向上に寄与。米国等海外組織との交流を推進し、1999年、国際アメリカンフットボール連盟設立時に初代会長に就任。同年の第 1 回ワー ルドカップの開催と成功した運営に貢献。その後、日本フラッグフットボール連盟 理事長を務めるなど、小中高、大学、社会人と普及に幅広く活動する。
水田 吉春 氏
(みずた よしはる)
(1937~2004)
日本審判協会・関東審判部長/日本協会常務理事/日本学生協会理事長/ 関東大学連盟理事長 麻布高等学校でタッチフットボールを始め、立教大学で活躍。1961年に日本アメ リカンフットボール審判協会関東審判部に入部。1972年、同審判部副部長、1976年、同部長に就任。発展する競技活動に対応する審判活動の組織化に貢献。公式規 則の制定、公式規則書の発行を推進する。1991年、関東大学アメリカンフットボ ール連盟理事長に就任。大組織の運営を指揮し、円滑な競技運営を推進するととも に、試合会場の確保、各種講習会の実施等、競技活動、運営に活躍。また日本アメリカンフットボール協会常務理事、日本学生アメリカンフットボール協会理事長として、 全国レベルでの普及に寄与する。
水野 彌一 氏
(みずの やいち)
(1940~現在)
京都大学監督/第 1 回世界大学選手権・日本代表チーム監督。1959年、防衛大学校に入学しアメリカンフットボール部に入部。1961年、京都大 学入学、ガードとして活躍し、卒業後、コーチ就任。1980年監督就任後、関西学 生リーグ優勝 10 回、甲子園ボウル優勝 6 回(出場 8 回)、ライスボウル優勝 4 回(出 場 6 回)を成し遂げた(2011年勇退)。関西学院大学との対戦は、数々の名勝負を 繰り広げ、アマチュアスポーツのビッグイベントとなり、国立大学全国制覇で全国 的な注目を集め、普及・発展に貢献。また、2001年京都市教育委員に就任、その 後、教育委員長となり、教育行政にも寄与した。2014年、第 1 回世界大学選手権・ 日本代表監督就任(準優勝)。
阿部 敏彰 氏
(あべ としあき)
(1941~現在)
アサヒビールシルバースター監督/世界選手権・第 1~3 回日本代表チー ム監督。日本大学在学中は選手として活躍し、4年生時、主将として甲子園ボウル 3 連覇に 導く。1970年、社会人クラブチーム「シルバースター」創部、監督就任。1988年、 アサヒビール株式会社とスポンサード契約締結後、1989年、クラブチームとして 初の社会人王座獲得。その後、ライスボウル優勝 3 回、社会人フットボールを代表 するチームに発展させた。1998年、日本代表監督として、ジャパンユーロボウル 快勝、翌年から始まった第 1 回ワールドカップも、2007年第 3 回川崎大会まで、 代表監督として指導・育成に貢献(第 1・2 回:優勝、第 3 回:準優勝)。また、1978年、地域のフットボール普及を目的に横浜アメリカンフットボール協会創設。
棚橋 寛衛門 氏
(たなはし かんえもん)
(1947~2005)
日本社会人協会理事長。1966年、東海大学入学、アメリカンフットボール部創部メンバーの一人として活 躍。1975年、社会人クラブチーム「シルバーオックス」創部。東日本社会人アメ リカンフットボール協会に所属し、東日本実業団連盟との統一及び西日本社会人連 盟とを統一するために東西社会人の取りまとめ役として尽力し、1985年、日本社 会人アメリカンフットボール協会創設。社会人協会初代メンバー(東日本支部長・ 専務理事)として、トップリーグ「X リーグ」の設立に邁進。2003年、日本社会人 協会第 2 代理事長就任後、活性化のために、国際化や競技レベル向上に尽力し、社 会人フットボールの普及・発展に貢献。
◆第四次顕彰者(2018年1月3日)
藤本 武 氏
(ふじもと たけし)
(1922~2005)
9 歳より10 年間、米国で育つ。日米関係悪化により19 歳で帰国。慶應予科で柔道部に入部したが召集。復員後、慶応義塾大学に復学し、フットボール部に入部。米国育ちのフットボールの知識と体格で入学後、直ちにレギュラー選手となり、1947年第1回甲子園ボウルにフルバックとして出場。強烈な中央突破を武器に先制のタッチダウンパスを投げるなど活躍、勝利の立役者となる。1948年、1949年と主将を務め、1949 年の第3回甲子園ボウルでは、第2Q、スパイクにより鼻骨損傷の負傷をしながら手当後、プレーを続行、第1回甲子園ボウルに続く2 度目の勝利に貢献。卒業後は審判員となり、甲子園ボウル、ライスボウルも担当。審判組織の充実、後継者育成に寄与。
井床 由夫 氏
(いとこ よしお)
(1927~2008)
関西学院大学が甲子園ボウル初出場の1949 年第4回大会にエンドとして出場。180cmの身長、体重80kgの大型ラインとして活躍。ブロック、パスキャッチ、ランニングに加え、パス力とフットボールのすべての動きに長けたプレーヤー。同大会では、第1Q3分、ダブルリバースからのボールを受け、先制のタッチダウンをあげる。また翌1950 年副将となり、第5回甲子園ボウルでは守備ではライン中央を守り相手の攻撃を抑えるとともに、4Qではダブルリバースを受けてから、勝利を決定づけるタッチダウンパスを成功させ、関西学院大学2 連覇に貢献。
Chuck Mills 氏
(チャック ミルズ)
(1928~2021)
イリノイ州立大学でガードとして活躍。NFL のコーチに就任後、1967 年ユタ州立大学(NCAA ディビジョンI)のヘッドコーチに就任。1971年同チームを率いて単独チーム初の来日、関東、関西で全日本と2 試合を行う。さらに1974 年NCAAディビジョンIのウェイクフォレスト大学を率いて2度目の来日、関東、関西で全日本と2 試合を行う。同氏は、来日中、日本チームと合同練習を行い、戦略、戦術面でのアドバイスを行うなど、我が国フットボールチームの技術力向上に寄与した。またその後、訪米した日本の関係者に様々な支援を行い、我が国のフットボールの発展に寄与した。1974 年、同氏の提案と寄付により、日本の学生の年間最優秀選手賞(ミルズ杯)を設けた。
髙橋 治男 氏
(たかはし はるお)
(1930~2020)
戦後始まった我が国における旧制中学(奈良中学)タッチフットボールの1期生。関西学院高等部から1949 年、関西学院大学に進み、180cm、80kg の俊足、大型のフルバックとして、その突進力を生かし4 年間レギュラーとして活躍し、4回の甲子園ボウルにも出場。ランのみならず、パス、キックともに兼ね備えた活躍で、関西学院大学シングルウイングフォーメーションではラン、ブロックを生かし原動力となり攻守に出場、チームの勝利に貢献する。卒業後は、関西学院高等部の教員、関西学院大学教授として関西学院フットボールの推進に寄与。
野村 正憲 氏
(のむら まさのり)
(1930~現在)
都立九段中学(現九段高校)でタッチフットボールに出会う。立教大学に入学、ドナルド・T・オークス監督の下にノートルダム大のシステムに基づきアメリカ陸軍士官学校コーチ団の指導も受け、日本人の体に合ったTフォーメーションを作り上げ、1951年、甲子園ボウルに出場。QBとして巧妙なボールハンドリングで初優勝。1952 年、甲子園ボウルに連続出場、精巧な試合展開の司令塔として2 連覇に貢献。その後も立教大学が甲子園ボウル4 年連続出場となるTフォーメーションを完成させた。立教大学が確立したTフォーメーションはその後、各大学に採用され、Tフォーメーションの初代QBとして我が国の近代フットボール化に貢献。
徳永 義雄 氏
(とくなが よしお)
(1930~2001)
戦後始まった我が国における旧制中学(豊中中学)タッチフットボールの1期生。関西学院高等部から関西学院大学に進み、パス、ラン、パントとも、卓越した能力で活躍。リーグ初優勝に貢献。続く1949 年第4回甲子園ボウルでは1年生ながらハーフバックとして攻守に出場。攻撃ではダブルリバースのプレーで先制点を挙げ、守備では自陣5ヤードでパスをインターセプト、95ヤードのリターンタッチダウンをあげた。1966 年、1967年の2年間、関西学院大学の監督を務め、両年リーグ優勝に導くとともに1967 年では甲子園ボウル優勝を果たす。また関西アメリカンフットボール協会理事としてフットボールの発展に寄与。
鈴木 智之 氏
(すずき ともゆき)
(1934~2016)
中学からフットボールを開始。関西学院大学では、2年生からレギュラーのQBとして活躍。米国のフットボールの書籍などからフォーメーションを研究、確実なフォワードパスとともに走れるQBとして活躍。3 年で出場した1955 年第10回甲子園ボウルでは、劣勢で迎えた第4Q 残り10 数秒で同点のタッチダウンパスを成功させ、引分け両校優勝への原動力となった。この試合を含め、レギュラーとして出場した甲子園ボウルで3 連勝する。攻守に出場し守備でもラインバッカーとして活躍。卒業後も経済人としてフットボール活動を支援。特に社会人フットボールの支援と大学チームとの連携に寄与。
木谷 直行 氏
(きたに なおゆき)
(1935~現在)
関西学院中学タッチフットボール部創部メンバーの一員で、その後、関西学院高等部、関西学院大学で10年間、ガードとして活躍。高校王座2 連覇、そして大学4年間は、全試合無敗の成績のラインとしての功労者。特に1956 年、4 年主将として出場した第11回甲子園ボウルでは、自身の鉄壁な守備とチームの統率で相手の攻撃を完封、同大学甲子園ボウル4 連覇を達成。同シーズンの第10回ライスボウルでも主将として全関西をまとめ7年ぶりの勝利の原動力となる。また西宮ボウルに10 年連続出場、関西学院大学のコーチに就任し指導者としても活躍。後楽園球場の人工芝化の記念で開催された1976 年のグリーンボウルでは、監督として西日本選抜チームを率いた。
吉岡 龍一 氏
(よしおか りゅういち)
(1937~2008)
聖学院高校時代、タッチフットボールで活躍。1950 年代半ば、ラン攻撃で第1期黄金時代を築いた日本大学のフルバックとしてバックス陣の中核となる。攻守出場の守備はラインバッカーとして活躍。試合を通してすべてのプレーに参加し、疲れを知らない、力強いバックスであった。1956 年から4 年間在学中、毎年関東大学リーグを制し、甲子園ボウルに連続出場、2 年となった1957 年からはレギュラーとしてフル出場。それからの3 年間の甲子園ボウルでは、パスのレシーブ、ランで毎年、タッチダウンを挙げ、日本大学3 連勝に貢献した。卒業後もOBチームの副主将を務め、在日米軍とのボウルゲームで果敢なランニングを展開した。
木村 洋 氏
(きむら ひろし)
(1940~2020)
高校時代、野球部で活躍。1959年、日本大学に入学、素早い動きと強力なブロックの攻守フル出場のガードとして活躍。1961年、4 年生部員が不在のため3 年生として主将に就任、2 年間連続の主将となる。3 年時には、経験のある3 年、2 年の部員が少ない中、毎週のOBとの練習試合で実力をつけ、関東大学リーグ制覇。同年の甲子園ボウル、および翌1962年の甲子園ボウルと連続制覇。日本大学第二期黄金時代の始まりの中核選手として貢献。卒業後、審判活動に参加しボウルゲーム等、多くの試合を担当。その後、警視庁のコーチ、日産自動車の監督として指導。また社会人フットボール協会の役員として普及に貢献。
横溝 裕利 氏
(よこみぞ ひろとし)
(1942~2008)
1961年、日本大学入学とともにフットボール部に入部。走り、投げるQBとして同大学第二期黄金時代を築く。4 年間、関東大学リーグを制し、レギュラーとして出場した1963 年第18回甲子園ボウルでは、第4Qに約50ヤードのロングパスで逆転勝利。翌1964 年は、アンバランスT、クィックパント体型からラン、パスを織り交ぜた多彩な攻撃、的確な判断で日本大学4 連覇を果たした。同年12月、戦後初の全日本チームの米国遠征にQBとして選抜され、2 試合(1分1敗)を戦った。卒業後もOBチームに参加、多くの試合で活躍する。
◆第五次顕彰者(2020年1月3日)
中澤 貞夫 氏
(なかざわ さだお)
(1930~2000)
都立九段中学(現九段高校)でタッチフットボール部を創部。1949年立教大に進学後、HBとして活躍。立大が確立した近代Tフォーメーションのバックスとして鋭い判断と機敏な走力で活躍。1951年、52年の関東大学リーグ優勝に貢献するとともに、両年の同リーグMVP受賞。甲子園ボウルでも1951年初出場で優勝。翌1952年も優勝。卒業後6年間立大でのコーチの後、1959年から1972年の14年間、監督としてチームを指揮。組織のまとまりを重視し、1960年、1965年には甲子園ボウルの優勝に導く。監督時代、全関東学生などの指導にもあたった。学生時代とその後の指導者としても立教黄金時代を築いた。
野﨑 和夫 氏
(のざき かずお)
(1932~2021)
明治大時代はQBとして活躍、1955年卒。卒業後、防衛大コーチを経て1961年、下位に低迷していた明大のコーチに、翌1962年、監督に就任。チームに対する犠牲的精神と選手の意欲の向上を重視した、理論派、戦略派の指導者。1968年にはストロングTと切れの良いオプションプレーで自身の監督生活で初の、明大にとっては20年ぶりの関東大学リーグ制覇。1997年までの35年の監督時代で甲子園ボウル4回出場。監督のかたわら、全日本、全関東チームの監督、コーチを数多く歴任するとともに約50年間、十指に余る大学・社会人チームの発足、指導、コーチ派遣等を行い、幅広く普及に貢献。
入澤 敏夫 氏
(いりさわ としお)
(1932~現在)
日本体育大の器械体操で活躍後、1963年、東京都立西高に赴任。1965年、西高タッチフットボール部の顧問に就任。同時に全国高等学校アメリカンフットボール連盟の活動に参加し、関東地区の高校でのアメリカンフットボール競技活動の理事、部長、理事長など、全体組織の運営に約35年間携わる。この間、神奈川地区、埼玉・茨城・千葉の組織化に貢献するとともに、高校フットボールの組織活動の強化、安全対策の推進、全国高校選手権クリスマスボウルの創設を行う。1993年日本アメリカンフットボール協会常任理事を務め、同年、永年の功績により東京都高等学校体育連盟より特別表彰を受ける。
倉智 春吉 氏
(くらち はるきち)
(1940~現在)
関西学院中学部のタッチフットボール部で競技活動開始。関学の中学、高校、大学と10年連続甲子園ボウル出場。大学時代は、大型FB、およびキッカーとして活躍し、ライスボウル、西宮ボウルにそれぞれ4年連続出場。1961年、関学の主将を務め、卒業後、社会人チーム、ホワイトベアーズ創部。1984年関西社会人連盟理事長に就任し、社会人チームの草分け的存在として組織化に尽力。1985年に設立された日本社会人アメリカンフットボール協会では、初代副理事長に就任するとともに、その後の1996年のXリーグ発足に寄与。2003年日本協会常務理事、2005年日本社会人協会理事長に就任。 2007年日本社会人協会初代会長に就任。
後藤 完夫 氏
(ごとう さだお)
(1943~2018)
慶應義塾高校で競技活動を開始。慶應義塾大でRBとして活躍、1964年ハワイ遠征全日本学生チームの一員に選ばれる。「スポーツは文化」と考え、普及のため、1970年アメリカンフットボール専門誌「TOUCHDOWN」を発行人として創刊、1976年より月刊誌化、2016年10月号(568号)まで、毎月発行。同誌の編集とともに自らフットボールの技術、戦術面の記事を執筆、日本、米国のフットボールの活動を報道。1974年よりテレビ放送の解説者として活躍するとともに、1987年、春恒例となった「ヨコハマボウル」を創設。また女子タッチ、フラッグフットボールの普及等、広くアメリカンフットボール競技発展に尽くした。
喜入 博 氏
(きいれ ひろし)
(1945~現在)
都立烏山工高でタッチフットボールを経験。1965年審判活動開始。1970年より関東審判部の運営に参加。フットボール興隆期で急速に増加する試合数に対し、関東審判部の組織化と拡大に貢献、多くの施策を実行。また教育を重視、ルールの知識、適用力の向上を図る。1974年より36年間、競技規則委員会で活動、計16回の公式規則書の編集、発行の実務的責任者を務める。1992年より14年間、競技規則委員長。1989年より15回、NCAAルール委員会に出席。1991年より4年間、審判協会理事長。審判員としてライスボウル14試合等、約1500試合の審判を担当。1999年第1回ワールドカップ3位決定戦の主審を務める。
板 哲夫 氏
(いた あきお)
(1948~2018)
日本大学櫻丘高校で競技活動開始、強豪校のQBとしてチームを導く。卒業後、日本大で1年はQB、2年から巧みな走法を活かしFBに転向、レギュラーとして活躍。1年、2年、4年で甲子園ボウル出場。2年で出場した第22回甲子園ボウル(1967年)では、先制TDを挙げる。また4年で出場した第24回甲子園ボウル(1969年)ではキックオフリターンのタッチダウンを挙げるなど、快足、リズミカルな動き、的確な判断で活躍、チームの副将として3年ぶりの王者となる原動力となった。1968年第21回大会から、ライスボウル3年間連続出場。卒業後、母校日本大学櫻丘高校、および日大のコーチに就任、後輩選手を育てる。
廣瀬 慶次郎 氏
(ひろせ けいじろう)
(1948~現在)
関西学院高等部でQBとして活躍、高校全国3連覇。関西学院大入学後、1年から4年まで甲子園ボウルに出場し、優勝3回。2年から正QBとして出場し、4年の第25回甲子園ボウル(1970年)では、自らのパス攻撃で大差の勝利、2年ぶりの王座奪還に寄与。卒業後、1971年関学大コーチに就任。1973年渡米し、ウェイクフォレスト大のチャック・ミルズ氏の下で同大コーチに就任、コーチのかたわら本場米国の技術、理論とコーチングを修得。帰国後、母校関学大でQBを中心に技術的な指導に貢献。1983年、関学大ヘッドコーチに就任。関学高等部の監督等を歴任するとともに、全高校選抜のヘッドコーチを務めるなど、多くの後輩の指導をする。
東元 春夫 氏
(ひがしもと はるお)
(1951~現在)
豊中高校で競技活動を始め、関西学院大でラインとして活躍、甲子園ボウル、ライスボウルに出場。関学卒業後、1980年から4年間米国留学。帰国後、競技規則委員就任、我が国における競技規則の制定・普及に努める。競技規則委員会副委員長を務め、その後2006年より4年間委員長として競技規則委員会を主導。米国NCAAとのコミュニケーションを図り、1985年には日本人として初めてNCAAルール委員会に参加して以来、2005年まで16回出席。またNCAAルール委員等関係者の我が国への招聘に貢献。この間、関西学連審判部の運営、および審判員として活動し、甲子園ボウル、ライスボウル等、多くのビッグゲームを担当。
川原 貴 氏
(かわはら たかし)
(1951~現在)
スポーツドクター。東京大学で4年間競技活動の後、コーチ、助監督。スポーツドクターとして、1990年日本協会の初めての重大事故調査を実施。以後、重症頭頸部外傷の予防、熱中症予防に積極的に取り組む。また、オリンピック、アジア大会、ユニバーシアードの日本代表選手団本部ドクターとして活躍するとともに、日本体育協会(現日本スポーツ協会)スポーツ診療所長、スポーツ医・科学委員会委員長、JOC理事、国立スポーツ科学センター長などを歴任。2004年にはアメリカンフットボールにドーピング検査を導入し、アンチ・ドーピング活動を推進。2013年より日本協会理事、同安全対策委員会委員長として安全対策の推進に貢献。
松岡 秀樹 氏
(まつおか ひでき)
(1961~現在)
高校時代は野球部。1981年日本大学入学、QBとしてアメリカンフットボールを始め、入部3か月のパールボウルで勝利に導く。パスとランを兼ね備え、大試合にも動じないプレーでショットガン体形を主導する。4年連続甲子園ボウル出場。1年よりレギュラーとして活躍し、1982年、1984年の優勝に貢献。1984年にはチャック・ミルズ杯受賞。日大4年で出場した1984年度のライスボウルでは、QBとして7TDを導き、日大初優勝を遂げポール・ラッシュ杯に輝く。卒業後、レナウンに所属し、1985年度より4年間ライスボウルに出場。1985年度にはレナウンを日本一に導き、2度目のポール・ラッシュ杯受賞。
東海 辰弥 氏
(とうかい たつや)
(1964~現在)
高校時代は野球部。1984年京都大学入学後QBとして1986年、87年と2年連続、関西学生リーグを制するとともに、甲子園ボウルで優勝(チャック・ミルズ杯を連続受賞)。両年、ライスボウルでも勝利、2年連続日本一となり、ポール・ラッシュ杯を連続受賞。強肩からのパスと、豪快かつしなやかなスクランブルランで活躍。卒業後、アサヒビール・シルバースターに所属、1989年には東京スーパーボウルを制し、社会人チャンピオンとなり、アサヒビール初のライスボウル出場に貢献。1992年度、93年度も社会人チャンピオンとなり、ライスボウルではQBとして、両年チームを勝利に導き、自身4度目の日本一となる。

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